わくわく公式派生作オタク

「原作では見られないオリジナルストーリー!」にわくわくが止まらない異端のオタク

【実写版ハガレン第一作】エドとアルが『そこにいる』喜びは続く

 このブログを開設して最初に記事を書いた時、色々な「自分は好きな公式派生作」を思い浮かべていたけれど、その中の一つに実写版ハガレンがあった。

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 二次元オタクが二次元オタクのために、だいたい以下のような言葉を書いているのを、何度も見てきた。

「他人になんと言われようと、好きなものがあるというのは素晴らしい」と。

 それは、漫画を原作とするアニメのオリジナルストーリーや、実写映画であっても、当てはまると思っていいのだろうか?

 いいんだと言いたい。 これはそのためのブログだ。

新ブログ開設にあたって - わくわく公式派生作オタク

 

鋼の錬金術師

 

 いつかは真面目にレビューを書かねば、と思っていたところに続編の告知がなされた。あの日の正気を失うレベルの興奮具合は、この前記事にした通りである。

 

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 そんなわけで、最初から最後まで私個人の感想しか書いてないレビュー、はじまるよー。

 

 もし「お前実写版ハガレンのどこが好きなんだオラッ!!」と聞かれたら真っ先に終盤が頭に浮かんでしまうので、もう初っ端から終盤の話(それも一作目におけるオチとも言えるとこ)に入ってしまうんですけども。

 

 「えっ!?残りの尺少ないし、まさかそこで賢者の石で体取り戻して終わりにするのか!?」と、アルとウィンリィと一緒にハラハラしてしまったあのシーン。しかし、エドは真理と再び相対するも、別の方法を探すことを選ぶ。

 

 本作におけるエルリック兄弟は十代の少年ではなく成人していると思われるが、成人したら成長ののび代が無いなんてのは決めつけだと思う(自分がアラサーになってからようやく成長できたと思えるようになったことで余計にそう思う…いや私の話はいいんだが…)

 

 序盤では、コーネロを追って一般人に迷惑をかけてしまったことに思うところはありつつも、「アルのためならなんだってやる」と言っていたエド

 …もしかすると、体を失ってから経過した年月が原作・アニメより長くなったために、アルへの負い目をさらに蓄積していたのかもしれない。

 コーネロの持っていた賢者の石が偽物とわかった時、石を使わないことを選んだ時にもアルに謝罪していたところからも、それが感じられる。

 

 しかし、人語を喋る合成獣を造るために家族を犠牲にしたタッカー、人間の命から造られた賢者の石を使って野望を叶えようとしたハクロの業を目にしたことで、あの選択に辿り着いた。

 「誰かの命で元に戻るくらいならこのままで良い」というアルの意志を無視してまで使ってしまったら、タッカーの言葉「君の手足と弟の体も命を弄んだ結果」が、単なる居直りじゃなく真実になってしまうのだから。

(命懸けでラストから賢者の石を奪った大佐も、エドの選択を何も言わず見守ったのも良い)

 

 この時、原作ではもっと先の要素である、扉の向こうのアルの肉体との邂逅を果たす(当時劇場でかなり驚いた)。

 戻ってきたエドは、ようやくアルの体を見つけながらもまだ何もできない悔しさからなのか涙を流しつつ、アルにそれを話す。

 「僕の体は元気そうだった?兄さんより大きくなってた?」と聞くアルに、すっかり痩せ細っていたのは隠し「立派になってた、オレより大きくなってた」と話すのだった。

 この時の、涙を堪えようとしながら笑顔を見せるエドの表情が本当に絶妙だ。

 

 空っぽの鎧で生きてきた弟をただ励ますことができればいい、あの姿を受け止めるのは今は自分一人でいい。

 そんな優しくて哀しい「兄」としての気持ちが伝わって、「はいたつこ実写版を好きになる側でした~~~!!」とならずにはいられなかった。

 

 

 思えば、まだ小学生の頃に出会って以来、エドはずっと自分の原点そのもののような推しで。

 でも、いざ「どういう性格の主人公なのか一言で説明しろ」って言われたらすぐには難しい。

 熱いけど、いわゆる「熱血主人公」とは少し違う。相手を突き放す言い方をすることもあるけど、クールでもない。

 それでもこれだけは絶対言えるんだけど、優しいんですよエドは。

 描写の仕方や解釈の方向性の違いこそあれ、原作・FAでも水島版でもエドは優しいと私は思っています。

 そして、この実写映画版でもちゃんとエドの優しさは息づいていたと感じたんですねー。

 本作におけるエドの優しさ、これは演じた山田涼介くんの力も大きかった。

 日本人だろうが大人だろうが、私がエドだと感じたから私にとって山田涼介くんはエドなんだよって、これまでもこれからも何度でも思うことでしょう(こういうハガレンファンもいることを、この記事で伝えられたらうれしい)。

 

 そう、(主にタッカー絡みを)見直して改めて思いました。山田くんは、素晴らしい曇らせと絶望を見せてくれる役者なんだな…と(すいませんでした)。

 申し訳ない。自分の中でエドといえば曇らせになってしまってるのは、原作にもあるにはあるとはいえ、間違いなく原作以上に陰が濃い水島版の影響。というより、私の少年主人公曇らせ好きの原点は水島版から…ダメだ関係なくなってきた

 

 

 その水島版に近い要素も少しだけ入っていたのも、自分が実写版好きな主な理由の一つだったりする。

 それはラストの最期であり、原作同様大佐に焼き尽くされるのだが、人間と同じように死ねる喜びを感じながら散っていく。

 ここに「人間になって死ぬことが自分の望みだった」と気づいて死んだ水島版の彼女とのリンクが垣間見えて、水島版を拾ってもらえたみたいでうれしかったですね。

 

 そしてあのシーンでの、敵ながらラストの最期に哀しみや切なさを抱いたように見えたエドの表情もまたすごく印象に残っていて。

 エドは、アルが自分を本物の人間と信じられなくなろうが、弟は鎧の体でも痛覚が無くとも心で痛みを感じられる『人間』だと信じている。

 ケンカのくだりで、それをアルに伝えられるならば、自分の左手が負傷するのもいとわない形で示されている。

 反対に、ハクロは人形達(これまた原作では終盤の登場なので驚かされた)を「痛みを感じない兵士」と呼んだ。

 だけど、ラストはホムンクルスである自分達を「五感も感情も生みの親への愛情もある、『人間』よ」と言った。

 目の前で人の命を奪ってきた相手だけど、ラストが自分達と無関係とは思えなかったのかな、と。あそこもエドの優しさが感じられる。

 

 

 本田翼ちゃんのウィンリィも好き。兄弟を大切に想っているのが伝わってくる。

 原作・アニメでは非戦闘員の都合上、登場しない期間もあるのだが、本作では兄弟と一緒にいる場面が多く、なにかとフォローに回ってくれる姿が描かれているのが嬉しい。

 あとエドとの会話がカワイイ、アップルパイのとことか。

 

 そして大泉洋のタッカーの存在感にも触れておきたい。

 後半で脱走した彼は原作・FAには無い、水島版とも違う暴走を始めるのだが、最終的に「天才(エド)が才能を無駄にするところを見てみたい」と、他メディアとは別の方向に歪んだ欲望を語る。

 そんなことのためにあそこまでやる下衆っぷりよ。大泉さんが上手いんだこれが。

 「これこそ優れた者にのみ許された快楽」とうそぶくも、実際の彼は第一作では姿すら見せなかった黒幕の駒(ホムンクルス)の駒(ハクロ)のまた駒に過ぎず、実に簡単に殺されてしまう。

 この(悪人キャラとして、いい意味での)矮小さ。個人的には純粋に面白い改変であった。

 

 

 映像面の話もしよう。

 見せ方が優れている場面と、やや上手くないかなって場面が混在してる感覚は拭えないのだけれど(兄弟の人体錬成では、アルの座る床が都合よく四角形に割れて吹き飛ばされるので、「ワァ…空飛ぶじゅうたんかな…!?」と思うなどした)、それはそれとして、前半のリオールでの戦闘で「実写で表現された錬金術」にすっかり引き込まれてしまった。

 錬金術、『あった』…!おそらくイタリアと思われる街を使ったスケールの大きさ、山田くんのアクションも相まって、劇場で圧倒されたシーンだ。

 

 そして、生身の役者の中に溶けこみ格闘するフルCGのアル。アル、『いた』…!

 アルは水島版のOVAや昔のガンガンのCMの時点ですでに実写になっていたのだが、あの時は人形が立ってるだけだったからな…実に感慨深い…。(「わぁ〜今月号もすごいや!」と嬉しそうなアルの声とともに露出度の高いメイド服を着た女の子の絵が出てくるガンガンCMが忘れられない)

 

 

 たとえ大多数に無謀と笑われようと、『鋼の錬金術師』を実写映像化する挑戦は続いた。

 完結編を見た時に私がどんな感想を抱いているとしても、その事実をただ味わっていたい。自分の願望に現実が追いついてくれたことを、ただ噛みしめていたい。

 

 

どさくさに紛れて水島版を布教するスタイル。