幼い頃の私は、「桃太郎って鬼の方が被害者なんじゃね?」とか「シンデレラって本当に王子と結婚した後幸せになれたの?」とは別に思わなかった。
ただ、童話の中で『おしゃれなカラス』だけは、初めて読んだ時からうがった見方をしていた。そして、大人になった今でもその気持ちを引きずっている。
『おしゃれなカラス』のカラスは、厳密には悪役と呼ぶべきか微妙なところで、ギャグ回におけるのび太や両津に近い存在。要するに、「ズルして調子づいてしっぺ返しを食らう主役」だ。
絵本によって細部は違うと思われるが、私が初めて読んだ時は「カラスは白鳥達をまねて、水で羽を洗い美しくなろうとしたが、自分の羽はどうやっても黒いままなのでガッカリした。そこで、他の鳥が落としていった羽を拾った」と書かれていた。
ここが、現在に至るまで私がカラスに大いに肩入れし、同情してしまった原因だろう。最初から何の努力もせずに卑怯な手段に走ったり、痛がる鳥からムリヤリ羽を引き抜くクソ野郎だったら、ザマーミロという感情の方が圧倒的に強くなったはずだ。
「ズルしてもいいことってないんだね」「人のものを盗んじゃダメなんだね」と教訓を得て読み終わるべき最後のページとにらみ合いながら、幼い私は思った。
じゃあカラスはどうすればよかったの?
カラスなんかが一番美しい鳥を目指すべきじゃなかったってこと?
カラス、かわいそう…。
成人してからふと思い出して、ネットで「おしゃれなカラス」の感想を調べたことがある。自分と同じように感じた人がいないだろうか、そんな人に出会えればスッキリできる気がしたのだ。
だが、出てきたのは私と違ってちゃんと教訓を受け取った人の意見、もしくは「現実にもこのカラスみたいな困った人間はいるよね」といった意見ばかりだった。
うん、正しいね。正しい正しい。
子供時代は「白鳥やクジャクはどうせ普段からチヤホヤされてんだから、たまにはカラスにも良い思いさせてやれよ」とも考えたが、白鳥やクジャクにしてみればたまったものではないし、そんなこじらせ劣等感100%の理屈が現実で通用したら、いったいどれだけの人が泣き寝入りする羽目になることか。
(これでも)成長した私の【理性】は彼らに同意した。
しかし、カラス推し(?)の私の【感情】からは、「あーはいはい正しい正しい、正しい意見を持ってて偉いデスネー」と真冬の北海道より冷ややかな目で気持ちのこもらない拍手を送るのみであった。
ようやく私と同じ心境で感想を綴っている人を見つけることができたのは、その数年後だった。
ここで知ったのだが、本によっては「カラスがありのままの自分を活かしていれば、一番美しい鳥に選ばれたかも」と締められているらしい。
幼い頃の私ならそれで納得したのかもしれないが、件の方は「じゃあなんで神様は他人(他鳥?)の羽で着飾ったカラスを選ぼうとしたんだよ」と、実にせやな!!!!とうなずかざるを得ないお言葉を書かれていた。
…ていうか、羽を落とした本人(本鳥?)に指摘されるまで不正に気づかなかった神様、無能すぎない??
神様なのにわからないんだ…ってこれも子供の頃からちょっと思ってた。
最近、漫画などで小悪党と思われた人物が「お前はやり方こそ間違っていたが、その熱意は本物だ。一緒にやり直さないか?」と味方側のキャラに言われる展開が好きだ。
カラスにもこんなことを言ってくれる相手がいてほしかったな。神様はある意味カラス以上の無様を晒して終わりではなく、そういう役割を果たしてほしかったものだ。
「嘘をついたり、他人の栄光を盗んだりすれば罰があるのは当然」というのは正しいし、「ありのままの自分を受け入れればいいじゃないか」と言われればその通りかもしれないが、その前に私は「でも、お前がんばったじゃん」とカラスに言いたいのだ。
なあカラス、最後はズルしたけど、お前だって自分を変えたくてがんばったんだよな。知ってるよ私は。
いやなんだこの話は(完)