わくわく公式派生作オタク

「原作では見られないオリジナルストーリー!」にわくわくが止まらない異端のオタク

【令和るろ剣】まだ間に合うと思うから荒戸流作さんや吾一達を語りたい

 

 以前、私はアニメ版『BORUTO』の話題で、「『大筒月化を抑制する薬』を、アニメオリジナルストーリーを成立させるための便利な道具だと思っていじっていたが、実は原作にもちゃんと登場してた…」と懺悔した事があった。

hijikidays2.hatenablog.com

 

 

 そしてここ最近は、アニメの前から既に原作を読んでいるのに、アニオリなのか原作にもあったのかわからなくなってしまう現象が多発している。

 

「原作とのイメージの一致が重視されている」と評価を受けるアニメが増えてきたのも、関係あるのだろう。

 それだけでなく、原作を読んだのが15年前だと、どうしても自信がなくなってくる。

るろうに剣心 京都動乱』(令和アニメ版)の後半よ、君のことだ。

 

 これもまた、脚本監修に原作者の和月先生本人が参加されているので、アニオリだと気づかず受け入れてしまうのも、当然と言えば当然なのかもしれない。

 ただ、私の事ですから他の視聴者から見ればそうさ100%違和感なアニオリでも「原作にもあった気がする!!」とか思っちゃってるんだろうけど、ま、ゆるく読んでくださいね。

 

 

 

  • とりあえず荒戸流作さんの話していい?

 令和アニメ見てて、 めっちゃ好きになっちゃったキャラがいる。警察署長の荒戸流作さんだ。

 彼は言わば「一般人代表」というか、「脇役の中の主人公」というか。

 第42話「翔ぶが如く」では、そんな彼の物語が、斎藤・張との問答、そして十郎という少年を通して描かれる。

 

 巨悪に真っ向から立ち向かえる強いヒーローでも、悪なりの美学や信念があるヴィランでもない。

 自分には力も能もない、どちらにもなれない……そんな風に思ってしまった経験があるのは、私だけではないはずだ。

 だからこそ、私にとって荒戸さんはつい感情移入し、応援してしまうキャラクターだ。

 

 斎藤から「過去のあんたに興味は無い、重要なのは今夜のあんただ」と京都大火への対処の指揮を任されるも心許なく、張から投げられた「屑」という言葉に揺らぐ荒戸。

 そこに現れたのが十郎だった。

 病床の父も自分も、住んできた町を守りたい。ただそれだけの思いで、加勢を申し出る子供。

 

 彼の刀には、まだ死んでいない自分の瞳が映る。

 「まだ、間に合う」。

 二つの意味が込められた言葉に、私は泣きそうにさえなるのだ。

 

 薩摩弁で十郎くんに感謝するのも泣ける。

 十郎くんには何の事かわからないのだが、自らの心が腐らぬよう、導いてくれた彼に。

 ヒーローのようには戦えなくとも、自分のすべき事を、教えてくれた彼に。

 感謝せずにはいられなかったのだろう…。

 

 

 もちろん、強敵と渡り合う力を持った剣心達…言わばスーパーヒーローの活躍も大好きなのだ。

 だが、荒戸さん達が、大きな力を持っていなくとも仲間を守り抜こうとする。

 戦う力のない人達でも、協力して被害を食い止めようとする、誰かを助けようとする。そんな姿には、熱くならずにいられない。

 

 

 鎌足と蝙也の攻撃( 本気ではなかっただろうが)に一人で膝もつかずに耐え抜き、負傷者の撤退を成功させた荒戸さん…アンタ、最高にかっこいいぜ…!!

 

 その後、荒戸さんは療養中にも関わらず、斎藤から志々雄の拠点に向かっている間の捜査・警備指揮を再び任される。

 それは、斎藤が「京都大火の夜の荒戸」をちゃんと評価してくれたからでもあるだろう。

 なんだかんだ言って引き受けた荒戸さんは、あの一日でしっかり成長していたのだ…。

 

 

 ……ここまで一般人枠キャラとしての荒戸さんの魅力を書き連ねてきて今更なのだが、本気でなくとも十本刀二人の猛攻を生き延びたキャラを、本当に一般人と呼んでいいものかとは思う。

 斎藤から「闘い以外でその地位に就いたクチ」と言われていたが、え、それでこの耐久力なの?やばくない??

 

 

 でも彼の見せ場って、たぶん原作の京都編にない…ないよね??

 なんなら原作に登場してたかどうか思い出せない(マジでごめん)

 …忘れてるだけであったら、荒戸さんに申し訳ないにも程があるが…なかったはず!

 

  • 吾一達の話もしていい??

 志々雄一派の末端にも、背景や友情があって…と描写されているのも好きだった。

 令和アニメ版では、その末端に属する四人の男達が名前付きで登場した。

 

 中でも吾一は、「敵サイドの荒戸」と言える立ち位置のキャラクターだ。

 だが、荒戸の「まだ間に合う」と対になるように、「もう遅い、やるしかない」って考えしてるのがエグい。

 

 十郎と同じ京都育ちでありながら、大火の実行犯として迷いがない吾一。

 彼の父は、維新の折に殺されたという。地位の高い者ばかりが甘い蜜を吸う社会への不満も大きく、そういった理由で志々雄一派に入ったらしい。

 

 決行の夜には、仲間の徳二と放火を試みるも、阻止されて逃亡。

 そこで、十郎と共に見回りをしていた老警官・近江に発見され、「見たところまだ若い、いくらでもやり直せる」と自首を勧められる二人。

 

 徳二は従おうとしたが、しかし、吾一は拒絶する。

「そんな言葉は聞き飽きてんだよ!こっちはな、歳食って悪事積み重ねて、こんな事になってんだ!」

「そっちのキラキラした目のガキとは違うんだよ!!」

 その叫びが、なんだか自分に刺さってしまった。

 

 「まだ若いんだからやり直せる」、上の世代の人から見ればそうなのだろう。

 しかし、自分の人生はもう、ゲームに例えればとっくに選択肢を間違え尽くしてバッドエンドルートへ突入しており、ただ長い長い憂鬱なテキストを読みながらろくでもないエンディングを待っているだけのような感覚。

 袋小路にいるまま、ただ老いていくのか…という未来への絶望がある。

 かといって転生物の主人公じゃあるまいし、子供時代には戻れない。

 

 十郎の純粋さと若さは、荒戸にとっては自身の道を照らしてくれたが、吾一には自身の戻らない時や失った希望の象徴となって苛立たせるものだったのかもしれない。

 先の失敗で、危うく宇水に処刑されかけたのも、「既に明治社会に居場所が無いのに、志々雄一派にすら居られなくなる」と焦燥を加速させたのだろうか…。

 

 しかし、あそこで留まっていれば、少なくとも徳二を自身の凶刃で失いはしなかったはずだ。

 徳二から逃げようと誘われた時といい、視聴者の視点で見ていれば、吾一の後戻りできる地点はちゃんとあった。

 吾一自身が見失った、あるいは見ようとしなかっただけで。

 

 自分にはまだ、失いたくないものも居場所も残っていた。それに初めて気づけたのは、徳二を刺してしまった時だったのかもしれない…。

 彼を愚かしいと思うのは容易だ。しかし、自分が彼のようにならないと言い切れるだろうか。

 自暴自棄になり、取り返しのつかない事態を引き起こしてから初めて、あの時別の選択をしていれば…と気づく。

 自分はそうならないと言えるだろうか……。

 

 荒戸さんに感情移入したり、吾一に感情移入したり、忙しいな私は。でも仕方ないのだ。

 敵側もまた、志々雄と十本刀のように圧倒的な力と個性など無い、有象無象の雑魚キャラと呼ばれてしまう存在であっても、一人一人の人間なのだなと思ってしまったのだから…。

 

 まあでも吾一達は流石にアニオリだろ…

 流石にない…ないよね…??

 

 

  • 恵さんがかっこいいのと、吾一達のその後

 徳二を救援所に連れて来た吾一が、被害に遭った人々に「出て行け!」と非難される(そりゃそう)中、医師として「患者に敵も味方もないわ」ときっぱり言う恵さんもかっこよかった。

 最近、『忍たま』好きになってるんだけど、『全員出動の段!』の伊作先輩と乱太郎みたいだなって…恵さんは保健委員だった…?(医師だよ)

 

 このシーンも…原作に……ない…ない…よね…??

 ……そもそも薫と弥彦も京都に来た後、京都編に恵の出番あった…??

 

 困った。もはや、(原作に)存在する記憶としない記憶の区別がつかない!!

 駄目だ…「普通に考えてアニオリだろ」って気持ちもあるけど、なんかあの『BORUTO』の大筒月化を抑制する薬の後だと全部…全部怪しい…!!(ミステリー物の容疑者かな??)

 

 ちなみに私は恵さんが、チャウチャウガールズの差し入れを全部併せてちゃちゃっと食べて、次の患者に向かったシーンも好きです。

 その背中を見た三人の心に、恵さんが「かっこいい大人」として刻まれたの、いいよね…っ

 

 ていうかさ十郎くん!再会した吾一に「よくものうのうと…近江さんに何かあれば許さん」とは言いつつ、何もせずに去っていくの、11歳で人間レベルが高すぎるよ!

(自分をかばって重傷を負った徳二、彼と近江さんを診てくれてる恵さんに免じて、かもしれないが…それでもえらすぎる)

 

 その後、近江さんは生還。「良かった…!」と、ここでは年相応に泣く十郎くんが涙を誘う。

 

 一方、徳二は帰らぬ人となる。

 徳二は小心者で鈍臭いが、仲間想いだ。きっと、吾一に子供を殺した業を背負わせたくなかったのだろう。

 志々雄の語る「弱肉強食」にすがりついた吾一に対し、彼は今際につぶやいた通り、向いていなかった…。

 性格的には最も別の人生を送った可能性がありそうだった、そんな彼が命を落とす。

 

 無事を喜び合う人々の間で、独り彷徨う吾一…。

 因果応報と言えばそれまでだが、胸に迫るシーンだ。

 

 

  • 煉獄とか原作を読み直したりとか

 ここまでとは逆に、「あっこれはアニオリだな…」とすぐわかったシーンがあった。

 左之助が外から投げた炸裂弾で戦艦・煉獄を破壊する…のではなく、乗り込んで機関室に向かうくだりだ。

 だって、みんな煉獄のこと「炸裂弾一発であっさり撃沈した」「登場して即沈められた」ってネットで擦りまくってるもん。きっとそう。

 

 そんな中、煉獄に蒼紫が現れ、剣心との一騎打ちが始まる。無論、ここでまだ決着はつかないのは察せられたが……

 ……あれ?蒼紫って煉獄に乗ってたっけ……?煉獄は即沈められたよな…??

 

 いや…もしかして私がよく覚えてないだけで…煉獄って言われてるほど早く沈まなかったんじゃないか…!?

 ホントは二人の戦いを描写するページ数分くらいは粘ってたんじゃないッ…!?

 だって、ネットで擦られるネタってだいたい実際に本編見た時の印象より大げさに語られがちだもん。きっとそう。多分左之助が乗り込んだのだけアニオリ。

 

 その間に、左之に志々雄様へ贈れなかった白バラの花束で立ち向かう方治!!白バラアタック!!

 方治、お前…そんなかわいいキャラだったんだな…。

 

 しかし!ただのおもしろアニオリで終わらない。

 なんと方治は、バラの棘で流した自らの血で炸裂弾の導火線を消火したのだ。

  さっきまで、顔面パンチといい「うっとうしい!」といい、ギャグ寄りに方治の相手をしていた左之助すら、これを見て根性を認めたのも納得だ。

 忠義のために文字通り身を削って、煉獄が沈められる運命を変えようとしたの、かっこいいぞ…!まあ沈みはするんですけど

 

 

 そして、私は…最終回を見る前に、電子漫画アプリ「ゼブラック」で原作を読み直した。すると…

 原作の恵さんは京都に来ねえ!!

 蒼紫は煉獄に乗らねえ!!もちろん船上の剣心対蒼紫戦なんて無え!!

 

 ……えっ待って?蒼紫って原作で煉獄乗ってなかったの…?

 剣心との戦闘シーン、めっちゃかっこよかったけど原作にない記憶だったの…?

 

 …おそらく実写映画の記憶が混ざってしまったのだろう。

 だって実写映画版では煉獄が本当に決戦の舞台だったし…あっちは四人相手にする志々雄様がめっちゃ強くてよかったね…!

 それでインパクト抜群だったからその…しょうがないよね!!

 はい。

 

 帆の上で対峙したり縄を活用したり、「せっかく煉獄延命するんだから船上のバトルやりてえ〜!!」というスタッフの皆さんの気持ちが伝わってきて良かった。

 

 荒戸さん周りはやっぱ全然無え!!ていうか署長のキャラデザ違うじゃねーか!!

 はい。吾一達はやっぱりいませんでした。こっちも、モデルにはなってそうだけどキャラデザ違う志々雄一派モブならいましたが。

 

  • 最終回で…

 最終回、剣心は比古師匠と話した帰りに、偶然にも吾一とすれ違う。

 彼の怪我に気づき、手当てをする剣心。

 

「もう行く場所もない、帰る場所もない…友達も見捨てちまった…もうどうすればいいか、わからない」

 こう話す吾一の顔には陰があり、憔悴しきって見える。

 

 しかし、剣心は諭す。「過去に何があろうが、最後に自分の生き方を決めるのは自分でござる。そのためには、あがくしかない」と。

 諭しつつも、自分もまたあがく者で、この言葉は師からの受け売りだと付け足し、去ってゆく。

 

 剣心にとって吾一は、薫と出会う前の自分や、薫達を置いて独りで京都に来た時の自分に重なって見えたのかもしれない。
 だとしたら、令和アニメ版の京都動乱編の最終回で描かれた意味が、美しく感じられる。

 緋村剣心という主人公が、戦うだけではなく、自身も迷い悩みながら相手の心と向き合うヒーローである事とも合わせて。

 

 吾一はこれからどうなるのか。再起し、償う事ができるのか……。

 それは、(第三期以降に登場しないのならば)視聴者それぞれに委ねられているはずだ。

 私はやっぱり、彼が最後に剣心と出会えた事には、明るい意味があると信じたい。剣心の言葉を聞いた吾一の顔に、一時でも光が差したから。

 

 

 数年前、『るろ剣』とは別のアニメの感想でも、似たような総括を書いた気がする。

 でもそれくらい、持たざる者や負の感情に囚われた者の物語を見ていると、どうしようもなく自分の心に突き刺さる。

 例えそれが、原作にはない本筋から外れた話でしかないとしても。

 

 「まだ間に合う」か?と、誰にともなく訊きたくなる瞬間が有り余るこの日々。

 私は、昨日ではなく今日と明日を、いつかまた生きられるだろうか。(などと自分の話で終わっちゃう)