小学生時代に自分のオタク人生を大きく変えたアニメが『鋼の錬金術師』なら、中学生時代にオタク人生を変えた(というより、水島版ハガレンによって変えられた路線を決定的にした?)アニメは『DEATH NOTE』だった。
最終回において、あえて無様に描かれた原作と違い、アニメ版の月は哀しい最期を迎える。
死ぬ間際に見たのがLの幻影だったのは、Lの最期との対比になっているようで「報い」かもしれず、あるいは「救い」かもしれず。
その幻を見ながら、月はどんな想いで死んでいったのか、言葉は一切無い。映像面はもちろん、この演出もまたなんと美しいことか。
一方で、「原作通りがよかった」という意見もあったのは書くまでもなく、「アニオリを入れるより原作のあの台詞をカットしてほしくなかった」、また「大量殺人を犯してきた月の死を美化していいのか」とも当時書かれた。まあそれは色々感想ありますよね。
しかし、私からもこれだけは書かせてほしい。約十五年経った今でも、当時ネット上で見た中で、どうしても引っかかっている批判がある。
「ニアの詰めが甘いのではないか?」という声だ。
アニメのニアは、逃亡した月を追おうとした相沢を制止する。
「ノートももう隠し持ってはいないでしょうし、あの傷では遠くへも行けない。放っておいても身動きは止まります」
結果的にその通りだったから良かったものの、あの時点で月が腕時計以外にもデスノートの切れ端を隠していた可能性はいくらでもある。
下手をすれば逆転を許し全滅していたのでは…ニアがうかつすぎる…という指摘を、自分が確認できただけでも3〜4人はしていたと思う。
だが、アニメ最終回の放送からかなり後になって、私は原作十二巻を読み直し驚愕した。
「わざわざ腕時計の中に仕込んでいたということは、もうノートを隠し持ってはいないでしょう」とニアが言っているのだ。
「もう隠し持っていないでしょう」と原作のニアが言っているのだ。
原作でもニアは腕時計だけで「月はこれ以上ノートの切れ端を持ってない」と判断してるじゃあねーか!!
おい!!!!!!
原作通り!!ニアのあの判断は!!原作通りです!!!
つまり、「原作でもアニメでも、ニアは月がもうノートの切れ端を持っていないと判断するのが早すぎる」と批判されれば私もせやなと思うが、「アニメ版は月中心のオリジナルシーンを入れたいがためにニアを詰めの甘いキャラクターに改悪し、貶めた」などという見解は明らかな間違いと言っていいのではないだろうか。
いや、先に挙げた3〜4人の方も、そこまでキツい書き方をしていたわけではないのだが…。
(そして、「ノートのことはわかったけど、それでも月を追うくらいはした方がいいんじゃないか?」と言われればそれはそうなのだが…)
それにしても不思議である。あの3〜4人の中でも特に原作を徹底的に読み込み、かなり気合いの入った感想を書いていた方でさえ、どうして「原作でもニアは月がこれ以上ノートを隠し持っていないだろうと発言していた」のをすっかり忘れてたとしか読めない批判をしていたのだろう…。
あの方は、月の最期を変えたことにはむしろ肯定的な姿勢だったので、「そもそもアニオリが苦手」とは考え難い。
そして、ほぼ同じ指摘をしていた視聴者が他にも複数人いた(どれもアニメで初めてハマった私と違い、原作をジャンプ連載時から追っていた人ばかりだったと思う)のも謎で…。
だが、「すごい表情であんたなんか神じゃないと叫ぶ魅上」と「必死にはいずって逃げようとした末、錯乱してしまったのか海砂や高田に助けを求める月」とやたら強烈なインパクトを残す場面に前後を挟まれた台詞なので、熱心な読者にすら忘れられるのも仕方ないのかもしれない…?
というより、私の認識がおかしいのか?好きなアニオリを批判する相手に求めるハードルが高すぎるのだろうか?この悪癖こそが、約十五年の間、私が本当に抜け出せていない真の呪縛なのか?そうなのか?
少し脱線してしまったが、最後に私があのニアのオリジナルシーンを擁護するもう一つの理由を書いておこう。
あの後相沢さんに突っぱねられて拗ねるニアは可愛い。
だって可愛いので…